ダーク ピアニスト
〜練習曲5 幻想の螺旋〜

Part 2 / 3


――ルイ。ポスターが出来たぞ。ほら
珍しく父が笑っていた。
それは、彼、ルートビッヒ・リュウ・シュレイダーのデビューコンサートが決まった日……。パーティーの席での事だった。

沢山の花束とご馳走と、数え切れないくらいのカメラのフラッシュ――。誇らし気な父とうれしそうな母。マテラ先生、ラインデル先生、それに、学校の先生方や友達、マリアンテも家庭教師の先生達も、みんなうれしそうに笑っている。まだたった10才の天才ピアニストとしてデビューが決まった。最初はピアノのソロで、それからオーケストラとの競演……。華やかな舞台。そして、スポットライト……。

ずっと落ちこぼれていじめられっ子だった彼にとっては人生をも変えてしまうような一大転機だった。春へ……希望へ向かって何もかもがよくなって行く……そんな気がした。ところが……。

不協和音……。

(どうしてあんな不快な音が立てられるんだ……こんな音、ショパンの音じゃないよ。彼はこんな風に弾かない。彼は、曲をこんな風に扱ったりしない。彼は……ショパンは……!)

――こんなのショパンの音じゃない!
ルイの言葉に父は怒った。
「黙るんだ! おまえに何がわかる? ついこの間まで、この私に手解きを受けていたくせに……! 私が教えたんだ。何もかも……おまえにピアノを教えたのはこの私だ!」
「ちがう! 父様じゃない! ぼくにピアノを教えてくれたのは、マテラ先生と、ラインデル先生、それに、ショパンとぼく自身!」

午後のやわらかい陽射しが差し込んでいた。その日に照らされてテーブルクロスの白さが引き立つ。母が焼いてくれたマドレーヌと熱い紅茶。その湯気が立ち込めた霧のように悲し気な母の表情を隠した。
「父様のピアノは、ちっともショパンの音じゃない! ぼくは、もっと自由な風のように……本物の音を弾きたいんだ! だって、ぼくは、ぼくは……!」
父の手が彼を叩いた。椅子が倒れ、床に落ちて、テーブルクロスが、その上に乗っていたすべての物が砕けた。花瓶もバラも、何もかも……。熱い紅茶が彼にかかった。が、彼は泣かず、悲鳴も上げず、毅然とした表情で父を見据えた。

「何だ? その目は……! 言いたい事があるなら言いなさい」
「嫌いだ!」
「何だって?」
「父様なんか嫌いだって言ったんだ。家ではいつも威張ってばかりいるくせに、外ではいい顔して、叔母様達が母様の悪口を言ってもただいっしょになって笑ってる。ぼくが学校で叱られて、でも、ぼくは盗みなんかやってないって言ったのに、父様はぼくのこと信じてくれなかった。それどころか、ぼくが悪い事するのは母様のせいだと言って殴ったじゃないか! 母様は悪くないのに……! 何も悪くないのに……マリアンテの事も殴ったんだ。ぼくを庇ったマリアンテを……。そんなに殴りたいならぼくを殴ればいいんだ! そうすれば気が済むのでしょう? ぼくがそれ程憎いなら、ぼくをそれ程嫌っているなら……ぼくは全然構わない。だって、ぼくは、あなたが大嫌いだから……!」

「貴様っ……! 誰に向かって口を利いてるんだ? 誰に向かって……!」
「もちろんあなたにだよ。フリードリッヒお父様!」
強情な瞳。そして、皮肉な微笑み……。父親にはそこに闇の風が見えたに違いない。父親は彼を蹴った。
「ウウッ……!」
子供は脇腹を押さえてうずくまり、激しく噎せた。
「ガイスト……」
父親は抑え切れずに感情をぶつけた。恐れる闇と同じ色をした瞳で睨むルイを殴りつけようと拳を上げる。

「やめて! あなた! お願い! フリードリッヒ!」
母親が庇って二人の間に割って入る。
「どけ!」
そんな母を父親が突き飛ばした。バランスを崩した彼女が激しくテーブルにぶつかり、その勢いで果物の籠が落ちて転がる。その中に銀色に光るそれがあった。父親のすぐ近くだった。

「母様!」
倒れた母を庇ってルイが父の足元を通る。その彼の背中に向かって何かがチカと閃いた。
「悪魔め!」
父親は闇にナイフを突き立てた。
「やめて!」
母の甲高い悲鳴が部屋中に響いた。突き飛ばされたルイの目の前で振り下ろされたナイフがバラを散らした。花瓶が割れて、ルイの手も、母の白いブラウスも、すべてが鮮血に濡れた。最後に触れた命の温もりは、やがて冷たい蝋へと変化して行った。

――父様は、どうしてそんなにもぼくが憎いの?

(父様は、ぼくが嫌い……。嫌い。嫌い……! だから、僕を殺した。母様も、僕のピアノも、みんな、みんな……!)

――生まれて来なければよかったんだ!

(そうだね。本当にそうなのかもしれない……。僕のせいで母様は殺されて……僕のせいで僕は殺されて……なのに、何故、僕は生きてる? 誰かがピアノを弾いている。あれは、誰? ショパン……? いいや。違う。知らない人……。どうしていつもこんな風なの? あの馬車の女の人も、桜の似合う彼女も、母様やアンナやマリアンテも……みんな、僕から離れて行くよ……。僕にやさしかった人達は、みんな幻想の時に包まれた白いヴェールの中……。涙の向こうに虹はあるの? 霧はどんどん濃くなって、僕には何も見えないよ。もう何も聞かない。何も聞こえない……あのやさしい声以外は……。ピアノ……。ピアノの音がする……。機械的で威圧的でキラキラと強過ぎる照明の下で……あれは何を弾いてるの? あれは、何を主張する……? 壊れた音……暴力的な声……いやだ! やめて! 聞きたくない! 今すぐやめろ! やめてくれ!)

コーダが響いた。マズルカは狂気を奏で、観客は熱狂し、音は冷たい炎へと投げ込まれて行った……。
「やめろ!」
耐え切れなくなってルビーが叫んだ。が、その瞬間。会場は割れんばかりの拍手に包まれて誰の耳にも彼の悲鳴は届かなかった。
「終わったのか……?」
鳴り止まない拍手の渦に飲まれそうになりながら、ルビーは立ち上がった。

「だから、こんな演奏会に来るのはいやだって言ったんだ! こんな下手糞なピアノ! こんなの聴いてたら耳が変になっちまう! さあ、早く帰ろう!」
ルビーが怒鳴った。が、しんとなった会場で他に席を立とうとする者はいない。舞台の上でフリードリッヒだけがじっと険悪な目を向けている。
「ちょっと、ルビー、どうしたの? まだ、終わってないのよ」
エスタレーゼが慌てて彼の袖を引っ張って座らせようとしたが、ルビーは頑として言った。
「僕は帰る! こんなくだらないコンサート。バカバカしくて聴いてられるか!」
「ルビー!」
止めようとするエスタレーゼの手を振り切ってルビーは階段へ向かった。
すると、いきなりステージの上のフリードリッヒが席を立って言った。

「私のピアノがバカバカしいだって? それは、一体どういう意味なのか理由を知りたいね」
問われて、ルビーが振り返る。
「言葉通りの意味だけど……」
ステージと客席の間に緊張が走る。
「納得が行かないね。君、理由を言ってくれないか?」
フリードリッヒが彼を見据える。
「理由だって? わからない? あなたのピアノはショパンの音なんかじゃない。技巧に頼っただけのつまらない演奏だって言ったんだ。あんな風に弾かれたら、曲が可哀想だよ」
「何だって? 私は何度もコンクールで優勝してるんだ。雑誌やテレビにも出て、いつも高い評価をもらってる。もし、そんな事を言うなら、君がここに来て弾いてみろよ。そして、観客の皆さんに決めてもらおうじゃないか! 幸い、今日は大勢の評論家の先生方もおいでだからね。君と私とどっちの言う事が正しいのか!」
「くだらないよ。そんな事」
そう言ってルビーはドアに手を掛けた。

「待てよ! 逃げるのか?」
「逃げる? 僕が? 何故?」
「それは、怖くなったからだろう? ステージで私と比べられるのが……。それとも、君は当てずっぽうで物を言ったのかい? ピアノを弾く能力もない素人のくせに……。それとも、私の人気に対する嫉妬なのか?」
そう言って笑う彼は自信に満ち溢れていた。会場のあちこちで囁きが起きる。
「一体どうしたって言うんだい? たかが観客一人が席を立ったくらいであんなにムキになるなんて……」
「彼、プライドが高いのさ。子どもの頃からずっと天才だとモテはやされて来たからね。あんな屈辱的な言葉、我慢出来なかったんだろうさ」

「天才?」
ルビーはふっと微笑するとステージに立つピアニストの男を見た。
「ああ、わかった。いいよ。この勝負、買った!」
言うが早いか、彼は風のように階段を駆け下りると舞台の上に飛び乗った。ステージに立った彼はフリードリッヒに比べてずっと小さかった。
「何だ……子供か?」
ピアニストは気まずそうな顔をした。が、ルビーはニッと笑って言った。
「そこ、どいてくれる?」
「あ、ああ」
言われて、フリードリッヒは脇へよけた。すると、ルビーは当然のようにピアノの椅子に座るとすっとそこに溶け込んだ。

「な、何だ? 今の……」
舞台の隅に立ったまま、フリードリッヒは総毛立つような震えを感じた。華やかなライト。しんと静まり返る観客。
形のいい彼の指先が鍵盤に触れた瞬間、すべての人の心が、いや、ホールの高い天井に掲げられた音楽の天使像の瞳さえ彼の奏でるメロディーから離れられなくなっていた。確かに彼はそこにいてピアノを弾いているのに、空間はそこになかった。強過ぎる照明も空調の低い音も、時間を羽ばたいて飛ぶ彼らには何の妨げにもならなかった。
彼らに聞こえているのはピアノ……。
そして、幻想と想い出の記憶……。

風のようだった。そよ風がそっと忍び込んでベルを鳴らす……。やさしく揺れるゆりかごの中で、夢見る赤ん坊のように、人々は心の中に眠る記憶を旅した。ある者は花園で語る美しきロマンを、ある者は古式ゆかしい建物の中で刷り上がったばかりの紙とインクの匂いを思い出し、また、ある者は、子供の頃に憧れた英雄の森へと冒険し、空想と現実の狭間の扉を次々と開いた。空を渡る風の記憶……過去を、未来を映し出す青い水鏡のように、誰もが皆、自らの心に酔いしれた。

心地よい音が彼らの繊細な心を撫でて行く……。それはまるで恋の秘薬。出会ってすぐに愛に目覚め、僅か数分で絶頂にまで上り詰めた……。そのあまりの快感に痺れ、演奏が終わってもまだ誰一人動く事も口を利く事さえも叶わずにいた……。ずっとそうしていたかった。
誰も何も言わず、この均衡を崩さずに、ホールという限られた幻想の森の中で、いつまでも醒めない夢を見続けていたい。観客の誰もが願い、ルビー自身もそう望んだ。が、舞台の照明は木漏れ日よりも眩しく、森に迷い込んだ狩人に追い詰められた子鹿のように彼の鼓動は高鳴っていた。
(ずっとこのままでいられたら……)
彼は軽い眩暈を感じて瞬きする。

(もし、今が、あの10才の時に果たせなかった夢の続きだったら……)
だが、それは叶わなかった。
突然の拍手が寝ている赤ん坊の眠りを覚ましてしまったのだ。続いて起きる拍手の波は、微かに繋がっていた彼の記憶の糸を断ち切った。そして、その渦に翻弄されるように、彼はのろのろと立ち上がる。
そんな彼を舞台の上からじっと見ていたフリードリッヒ……。その手が微かに動いて胸の前で重なる。そして、ゆっくりと手を打った。何度も何度も……。そして、言った。
「君は一体……」

が、その声を掻き消すように会場に響き渡るブラボー! の声。
「ルビー!」
その凄まじい嵐のような拍手にもみくちゃにされつつ、エスタレーゼが舞台のすぐ下まで来て叫んだ。
「だめよ! ルビー!」
賞賛の声に混じってあちこちからアンコールという叫びが上がった。眩しそうな顔のルビーにエスタレーゼが首を横に振る。
「だめ!」
ルビーは頷くと舞台を飛び降り、エスタレーゼの手を掴んで一目散に出口に向かった。途中で何度も誰かの手が彼を捕まえようと触れて来たが、彼は止まらなかった。


「君! 待って!」
エントランスを出た所で誰かが追いついて来た。カール・クリンゲルだった。
「素晴らしかったよ! あの平板なフリードリッヒの演奏に比べたら、正しく天界の調べそのものだ。頼む。名前を教えてくれ。せめて、君の名前を!」
カールは走りながらそれだけを言った。ルビーはちらと彼を見たが、立ち止まらずに曲がり角を折れた。カールは諦めきれずに追い掛けてその角を曲がる。しかし、そこには誰もいなかった。その奥は工場の敷地で門は固く閉ざされており、塀と小さな靴屋が一軒あるきりだ。無論、その靴屋も覗いてみたが、中に客はいなかった。
「バカな……! 消えた?」
カールは元来た道の左右を見た。が、彼らの影は何処にもなかった。
「まさか、幻? 本物の天使? いや、そんな事はない。彼は人間だ」
カールは、隣の席に落ちていた紙飛行機を持って来ていた。忘れ物だと彼に返そうかと思っていたのだが、どうも彼には必要のない物だったらしい。フリードリッヒの演奏は確かに技術的には優れていたが、彼の言う通り、カールにとっては退屈なものでしかなかった。

――ルビー

不意にその言葉が耳をよぎった。
「ルビー……確かそう呼んでいた。それが、彼の本名なのか……?」
しかし、何かが違うような気がした。そして、彼ははっとした。

――よりによって父様と同じフリードリッヒだなんて……

確かにそう言った。それが妙に引っ掛かる。確か、そういう名前のピアニストがいた。
「そうだ。フリードリッヒ・フォン・シュレイダー……彼には息子がいた筈だ。黒髪の天才少年ピアニスト……」
カールは急いで地下鉄に向かった。家に資料がある筈だ。あの時のプラチナチケットを手に入れる為にどれ程苦労したかわからない。結局、そのコンサートは開催されず、幻になってしまったのだが、その少年が生きていたのではないかと思い当たってカールの胸は高鳴っていた。

「あの人、僕の父様の事知っているのかしら?」
ルビーが靴屋の入った建物の屋上から下を見て言った。
「ルビー……」
風に吹かれてエスタレーゼが少し震えて言う。
「彼、父様の名前を言った。フリードリッヒ・フォン・シュレイダーって……」
「そうね。彼は音楽評論家だからピアニストだったあなたのお父様の事は知っているかもしれないわね」
「それじゃ、僕の事も知ってるかしら?」
「さあ……? でも、どうして?」
「何か思い出したみたいな顔してた。僕、あの人と話してみたいな……」
しかし、それは許されない事だった。


数週間後。ルビーはジェラードに呼ばれた。彼は、ある雑誌の小さな記事を指差して言った。
「困った事をしてくれたね」
「何?」
「ここにね、坊やの事が載っているんだよ」
が、雑誌を突きつけられても文字の読めないルビーにはさっぱり意味がわからなかった。
「この間、ホールでピアノを弾いたんだろう?」
「うん。でも、1曲だけだよ。それに、すぐに出て来ちゃったし……」
ジェラードは低くため息をついて言った。
「ここにはね、おまえがあのルートビッヒ・リュウ・シュレイダーではないかと書いてあるんだよ」
「え?」
初めてだった。ジェラードにその名で呼ばれるのは……。久しく呼ばれていなかった彼の本名だ。

「そう。あの幻の天才少年ピアニストが生きていたと書かれている。音楽の天使として再び蘇ったのだとね」
「僕が……?」
「そう。おまえがだ」
ジェラードに言われ、ルビーは微笑した。
「そう。僕は生きてる。それは、全部本当の事なんだ。でも……」
ルビーは少しだけ上目遣いにジェラードを見上げた。それを言ってはいけないと、ずっと言われて来たからだ。案の定、ジェラードはゆっくりとした仕草で顎を撫でながら言った。
「そうだ。おまえは、もうシュレイダー家の人間ではない。ルートビッヒ・リュウ・シュレイダーは死んだのだ。あの不幸な事件が起きた時に……。そして、おまえは生まれ変わった。ルビー・ラズレインとしてな。そう。あの日から、おまえは私の息子になったんだ。そして、今では、闇のピアニストとして仕事をしている。そうだろう?」
「はい」

「なら、もう未練はないな?」
「未練?」
「おまえの両親はもういない。それに、おまえはここに来る前に人を殺めた。罪人として、もうシュレイダー家には戻れない。何より体面を気にする貴族の家柄だ。おまえは、一生ここにいるしかないのだよ。だが、何も心配する事はない。私の下でいい子にしていれば、何もかも与えてやる。欲しい物は何でもだ。今までだってそうだったろう? これからもずっとそうしたいとは思わないか? ここにいれば、警察に捕まる事もないし、不自由な思いもさせない。おまえはただ、時々私に力を貸してくれさえすればいいんだ。どうだ? 簡単な事だろう?」
「でも……」
ジェラードの甘い言葉を消化し切れずに、ルビーは軽く手を握った。

「でもね、僕、もう一度だけ母様に会いたいんだ……」
「何を言ってるんだい? おまえの母親はもういない。死んでるんだ。わかっているだろう? おまえの目の前で父親に刺されたのだとおまえ自身が言ってたじゃないか」
「そうだけど……そう思ってたけど、生きているかもしれないんだよ。この間、イワンが母様は生きて日本にいるって、僕を連れて行ってくれるって言ったの」
それを聞いてジェラードは哀れみの籠もった目で彼を見つめた。
「可哀想に……坊やは騙されたんだよ。あのでくの坊のロシア人に……」
「でも……」
ルビーは拒むように言った。
「だったら、お願い。せめて1度だけ家に戻して……誰かに訊いたらわかるかもしれないから……誰にも何も言わずに来ちゃったの。きっとみんな心配してる。だから、ねえ、お願い! 僕が生きてるって知らせたらすぐに帰って来るよ。だから……僕を家に行かせて……」

「残念だけど、あの家には誰もいないよ。みんな、あの事件の後引き上げてしまったんだ。今は廃墟になって誰も近づく者もいない」
「それは、みんなが僕のこと死んだと思ってるからでしょう? でも、僕はこうして生きているんだし……それがわかったら……」
「もう何年も経ってしまっているんだよ。みんな散り散りになってしまって何処にいるのかもわからないだろう」
「叔母様達は? 僕の事嫌っていたけど、それに、お祖母様も……いつも旅行で会った事ないけど、肖像画を見た事があるんだ。とてもきれいな人だった」
「残念だけど、彼らはおまえに会ってはくれないよ」
「どうして?」
「シュレイダー家にとって、おまえは必要のない子だから……」
「……!」
それを聞くとルビーはこらえきれずに泣き出した。
「僕のせいなの? 僕が悪い子だから、みんなは……お祖母様は会ってくれないの? 僕が悪い子だから……」

――こんな子がいるなんてシュレイダー家の恥よ
――そうよ! 肌の色も違うし、計算も出来ないバカなのよ
――もう10才にもなろうってのに未だにアルファベートも読めないなんて……何処か施設にでもやって一生閉じ込めておけばいいのよ

昔、意地悪な叔母達が言った言葉を思い出して、ルビーはますます悲しくなった。
「僕のせいなの? みんな……」
泣いているルビーの肩をそっと掴んでジェラードが言った。
「貴族なんて奴はそういうものさ。だが、私は違う。そして、『グルド』も……。ここでは、みんな、おまえを必要としているんだ」
「愛している?」
「ああ。もちろんだとも」
そう言うと、ジェラードはやさしく彼を抱き締めた。ルビーは止まらない涙の向こうに散って行く桜の花びらを見たような気がして、前よりずっと悲しくなった。


「ルビー……どうしたの? お父様に叱られたの?」
庭の隅で座り込んでいる彼を見つけたエスタレーゼが近づいて来て訊いた。
「ごめんなさい。わたしもさっき叱られたの。ピアノのコンサートならルビーが喜ぶと思って……。わたしが無理に誘ったりしたから……」
「いい。君のせいじゃないよ……。僕は悪い子だから……。でも、当分、外に出ちゃいけないって……」
「そんな……」
それが、ルビーにとってどんなに辛い事なのか、彼女はよく知っていた。
「可哀想に……」
彼女は、そっと彼の頭を撫でてやった。
「わたし、なるべくあなたのお手伝いをするわ。何かして欲しい事があれば遠慮せずに言ってちょうだい」
「ないよ。何も……」

ルビーは、そう言って俯いたきり黙って地面を見つめていた。蟻がせっせと何かを運んでいた。その蟻をルビーはじっと見つめている。やがて仲間が来て、訳もなくそこいら辺を歩き回っている。他に何か食べ物がないか探しているのかもしれない。ルビーはそっとポケットから飴の包みを一つ出すとそれを剥いて蟻の側に置いた。すると、後から後からたくさんの蟻が集まって来てそれに取り付いた。
「喜んでくれたかな?」
フッと上を見上げてルビーが言った。
「ええ。きっとね」
エスタレーゼは微笑んでくれた。ところが、それから1時間もしないうちに、使用人の一人が庭を消毒した。蟻や害虫が増えて困っていると料理人や小間使いの女達に聞いたからだ。

「みんな、死んじゃった……!」
ルビーの手の中には、もうすぐ蝶になりかけたまま固くなってしまったサナギがあった。
「ルビー! 気持ち悪いわ。そんなの早く捨てちゃって……!」
それを見て、エスタレーゼが叫んだ。
「気持ち悪いの? どうして?」
「だって、そんなの生まれ損ないの虫だもの」
「でも、きれいな蝶々は好きでしょう?」
「これは、蝶々なんかじゃないわ。出来損ないの虫の化け物!」
「同じだよ。これだってちゃんと出られたら羽を広げてあの美しい蝶になれる筈だったんだ。美しい蝶に……」
そう言ってルビーは涙を溜めた。青空に白い蝶の群れが舞い、霧のように彼の視界をぼかして行く……。

(僕だって飛びたかったんだ。自由な空へ……)
出来損ないの虫の化け物は、そっと花壇の土に埋めた。赤い花の根元に……。
「ここなら、いつでも蜜が吸えるからね……」
汚れた手と真っ赤に咲く花を見つめ、ルビーは心の中で呟いた。
(僕も出来損ないの化け物なんだろうか? 普通の事が出来なくて、普通の体じゃない僕は……なのに、僕には、普通の人にはない力がある。でも、そのせいで、また、みんなから言われるんだ。この化け物って……!)

――生まれて来なければよかったんだ!

(本当にそうならよかったのかもしれない……そうしたら、甘い花の蜜の下でずっと眠っていられたかもしれないのに……)
埋めた土を撫でながら、ルビーはずっと記憶を辿った。
(どうしてなんだろう? どうして……! もしも、あの時、風の能力が使えたら……! 母様を守る事が出来たなら……。僕は化け物になったってよかったのに……。それで、みんなにバカにされたって絶対泣いたりしなかったのに……。一番守りたかった人を守れずに、僕は……僕……!)

瞳の奥で夢幻の光が分裂し、爪の先にコーティングされた光はこの世の何もかもを引き裂かんと異様な程筋肉と血管が逆巻いている。
狂気……。
だが、脈打つ血管を流れるものは人間の赤い血ではない。彼の体の隅々まで流れる血。それは音楽だ。それを表現する為に彼は生まれて来た。

「ピアノ……」
彼は呟く。
そして、立ち上がると幻想の霧の中へと腕を伸ばして歩き出す。
「ああ。僕のピアノ……」
そうして、彼は鍵盤を叩く。そして、狂ったように歌い、叫び、それから、エステレーゼの方へ首を傾け、静かに言った。

「あの本、手に入れられないかな?」
「本?」
エスタレーゼが驚いて訊いた。これまで彼が本をねだった事など一度もなかったからだ。
「欲しいんだよ。あの本が……。僕の事が載っていたというあの雑誌に何が書いてあったか知りたいんだ」
「わかった。何とか手に入れてみる」
それは、クラシック音楽の専門書で発行部数は多くなかった。エスタレーゼは、それをインターネットのオークションで手に入れた。

そして、その記事をルビーに読んで聞かせた。ジェラードが言っていた通りだった。かつて、デビュー直前に姿を消した天才少年ピアニスト、ルートビッヒ・リュウ・シュレイダーは生きている。そして、彼は、今も何処かで人知れず天上の音楽を奏でているのかもしれない……という小さなコラムだった。著者はカール・クリンゲル。やはり、あのコンサートで彼の隣に座っていた音楽評論家だった。

「これを書いた彼に連絡取れないかな?」
ルビーの言葉にエスタレーゼは少々困惑していたが、すぐに了承してくれた。
「いいわ。出版社に電話して訊いてあげる」
「ありがとう」
ルビーが微笑む。と、エスタレーゼは何気なくそのコラムの隣にあった記事に目を止めた。フリードリッヒ・バウメンのコメントが載っていたのだ。あのコンサートの日のアンケート結果を知らされて、彼はかなりショックを受けたようだった。ほとんどの観客が彼の事ではなく、一曲だけ弾いて去ってしまった黒髪の少年の事ばかり褒めていたからだ。しかし、そのフリードリッヒも間近でルビーの演奏を聴き、感銘を受けていた。
「……私はすっかり自惚れて自分を見失っていたのです。高いステージの上から観客を見下すような言動をしたばかりでなく、作曲者に対しても恥ずかしいくらい傲慢な態度をとっていました。でも、その事に私自身まるで気がつかなかったのです。私は未熟です。でも、これを機に、もう一度自分自身を見つめ直し、演奏や表現について、勉強して、次の舞台ではもっとその曲や作曲者の心を大切にした演奏をお聞かせ出来たらと思います。あの日、一瞬だけ現れた黒髪の音楽の天使に感謝します」
と結んでいた。読み終えた彼女はルビーと顔を見合わせて微笑した。

「よかったわね」
「そう。音楽は心のリレーなんだ。作曲者の心が時代を超えて演奏者に伝わり、そこに新たな演奏者の心が合わさって初めてその曲が完成される。演奏者に伝える心や想いがなければそれは他人の心に届かない。いくら完璧なテクニックをマスターしたとしてもね。想いの強さが感動を呼び、作曲者の心も今に伝える事が出来るんだ。ショパンはね、すべての想いと言葉を曲で表したんだよ。だから、それを技術だけで弾いちゃいけないんだ。でも、世の中の多くの人が技巧に走ってしまう。確かに、ショパンの曲は難しい。でも、一番忘れちゃいけないのはそこさ。世の中にショパン弾きと言われるピアニストは大勢いるけど、僕が思うに、そのほとんどが出来てない。とってつけたようなその場限りの感情を植えつけてもそれは表面の事だけだからね。所詮付け焼刃に過ぎないんだ。もっと心の奥深いところまで入り込まなければあれらの曲は弾けないんだよ」
「ふーん。それで、ルビーの弾くショパンはちょっと特別な気がするのね」
「うん。でも、彼、バウメンはきっと、いいピアニストになれるよ」
「ほんとに?」
「多分ね。でも、誰が出て来ようと、僕が1番だって事には変わりないけどね」
そう言って笑うルビーを見てエスタレーゼも微笑んだ。